渥美清さんってどんな人?
お疲れ様です!KIRIです!今回は生涯にわたって「男はつらいよ」の主人公である「車寅次郎(以下寅さん)」を演じ続けていた渥美清さんについて語っていきます!
生い立ち〜役者になるまで
渥美清こと田所康雄さんは1928年3月10日に東京の上野に新聞記者の父と小学校の先生をしていた母の間に次男として生まれました。「康雄」の名前の由来は兄の名前である「健一郎」の一文字目と「康雄」合わせて兄弟「健康」で育ちますようにという思いを込めて名付けられたそうです。幼い頃は病気がちでしたが、学校を休んでいる間は落語を聞いていたこともあり、落語を語っては寅さんと同じく人を笑わせることが得意だったといいます。しかし、成績は芳しくなく、寅さんの幼少期と同じく喧嘩三昧だったとされています。戦時中は学徒動員を経験し、終戦直後は博打に明け暮れたこともあったといいますが、1947年に会社員の傍ら小説家を目指していた優等生育ちの兄を肺結核で亡くし、家庭を支えるために働きますが、職は長続きできなかったといいます。船乗りを反対されたともされていますが、警察官から「お前の顔は一回見たら忘れない。指名手配されたらすぐパクられる。顔で売るなら役者にでもなったらどうだ。」と言われたことを機に役者を目指すようになったとされています。1950年代に入ってから「渥美清」という芸名を名乗り、役者として知れ渡るようになります。「田所(本名)では何一ついいところはない。だから、もう一つ化けられたら、もう一つ名前があったら、そういう思いが心の底にあった。」と渥美さんは語っています。四角い顔に小さい目、寅さんの代名詞でもあるその顔立ちが役者として活かせるようになります。
結核による入院から復帰
役者として売れるようになりつつあった矢先、1954年に兄の死因でもあった肺結核を患い、一命は取り止めるも2年間の入院の末ひどく痩せ細り片方の肺を切除してしまいます。肺結核を患ったのを機に禁酒禁煙、コーヒーすら飲まないようにと健康には気を使うようになったとされています。役者に復帰はするも入院前ほど動くことはできず、一時はどう食べていければいいのか途方に暮れたこともありましたが、寅さんの職業でもあるテキ屋の手伝いをしていたこともあり、寅さんの代名詞である「啖呵売」が脳裏に浮かびます。体力がないなら口(トーク)を売りにすればいいと決意したきっかけにもなります。その後渥美さんはお笑いトリオである「スリーポケッツ」を結成し、脱退後の1960年代に入ってからNHKのバラエティである「夢であいましょう」やドラマである「若い季節」に出演し、テレビでも売れるようになっていきます。そこから「渥美清」は全国に知れ渡るようになってきました。この頃から今では「徹子の部屋」や「窓ぎわのトットちゃん」で知られる黒柳徹子さんと共演もしています。映画でも後に寅さんの妹である「さくら」を演じる倍賞千恵子さんと共演した自身の初主演作である「あいつばかりが何故もてる」や兵隊を演じた「拝啓天皇陛下様」など主演を果たし映画俳優としても注目を浴びるようになり始めました。
活躍から結婚
1960年代後半から渥美さんは主演を増やし、66年から68年まではドラマシリーズである「泣いてたまるか」を毎回違う役を演じながら主演を果たし、後に「男はつらいよ」につなげるきっかけとなります。この頃から後に「男はつらいよ」で寅さんの義弟となる博を演じた前田吟さんと共演するようになります。所帯を持つことで責任の重さを感じていたこともあり長らく独身でしたが、40代を迎えた1969年に「寅さんファンである公認会計士の娘」である17歳年下の女性と結婚し、一男一女をもうけます。その一方で渥美さんは私生活を顕にすることはほとんどなく長男の存在が公に明かされたのも渥美さんが亡くなった後とされています。この頃から「男はつらいよ」シリーズが続くようになりますが、渥美さんが会社を立ち上げてまで企画に携わった「あゝ声なき友」や寅さんファミリーも多数共演していた「キネマの天地」、「幸せの黄色いハンカチ」などの映画にも出演しています。
晩年から亡くなるまで
ギャラが高くつくほど売れて後に国民栄誉賞を受賞した渥美さんでしたが、還暦を迎えた1989年ごろから体調が不安定になり「男はつらいよ」シリーズも「キネマの天地」公開のためお盆は公開しなかった1986年を除いてこれまでお盆と年末に公開されたのが年末のみとなり寅さんの出番も減少し、寅さん以外の映画には出演もほとんどしなくなりました。映画では寅さん以外では1993年に公開された「学校」で八百屋の店主を演じたのが最後であり寅さんを最後に演じた1995年の「男はつらいよ 寅次郎紅の花」ではマフラーでやせ細った首を隠しておりロケ地では元気な頃は周りに笑顔で「どうも!お疲れ様です!」と気さくに声をかけサインに応じたこともあったのが晩年は地元住民に声をかけられても応じることすらできなくなるほど衰えていました。CMもこれまで胃腸薬であるパンシロンやバルサンのCMなどに出演していましたがブリヂストンの「ニッポンのタイヤは変わります!」というフレーズのCMに出演するのが最後でした。そしてその翌年である1996年8月4日、渥美さんは68歳で亡くなります。亡くなる直前には奥さんに「やせ細った姿は見られたくない。火葬されるまで亡くなったことは伏せてほしい。」という遺言を残し火葬を終えた後に山田洋次監督をはじめ奥さんから関係者に訃報が伝えられたといいます。今渥美さんはご本人の遺言から戒名もつけられておらず「田所康雄」として眠っています。
亡くなった後〜その他エピソード
渥美さんはプライベートは秘匿していましたが、共演者とは親しく接しており、特に寅さんの弟分である源公を演じた佐藤蛾次郎さんとは渥美さんが当時結婚式をするほどお金がなかった佐藤さんに対して「男はつらいよ」のスタッフとキャストだけで結婚式を開いてくれたこともあったとされています。倍賞さん、佐藤さんと共にタヒチ旅行に行ったり佐藤さんが2022年の暮れに亡くなった直後のお別れ会で倍賞さんは手紙で渥美さんが倍賞さんに「もし男はつらいよがなくなったらさくら、お前が歌手で俺はボディーガード、蛾次郎は司会者でクラブ周りをしよう!これは売れるぞ!」と語っていたといいます。他、柴又では老舗の居酒屋も行きつけでありお酒は飲まなくなりましたが、納豆オムレツが大好物だったとのことです。亡くなった後、渥美さんは国民栄誉賞を受賞し、その授賞式は長男である健太郎さんと倍賞千恵子さんが出席していました。広辞苑にも記載されており、著名人にもなりましたが、最近ではあまり名前が聞かれないこの頃、「渥美清」という偉大な俳優がいたことを心に刻んでおきたいですね。
出典リンク
Youtube(2024年1月追記:動画が削除されました。)
-
前の記事
寅さんファミリーについて 2023.11.19
-
次の記事
2024年最初の記事 2024.01.02